レディーファーストとは文化である。【戯言】

本記事は以下のような方を対象としています。

  1. 「レディーファースト」という言葉に良い印象を持っていない。
  2. 自分の事を理屈っぽい人間だと思っている。

善悪ではなく、文化である

  「レディーファースト」という言葉やそれを巡る議論について、ずっとモヤモヤしたものを感じていた。 SNS上では肯定する意見も否定する意見もあるが、そのどちらも自分の中ではしっくりこない。   だがある時、「レディーファースト文化である」 という考え方に至り、この言葉への自然な向き合い方が得られたように思う。レディーファーストとは(慣れていない私にとっての)異文化であり、彼らにとっての馴染みの文化なのだ。

  (私を含む)理屈っぽい人間が、レディーファーストをややこしく考えてしまう原因は、「フェミニズム」・「男女平等」という、一見関わりが深いと思える概念を想起してしまう事にあると思う。つまり正しさを軸に捉えようとするから混乱するのだ。
  レディーファーストを始めから善悪で判断しようとしてはいけない。まずは、レディーファーストとは行動様式であり、過度に合理性や正義を求めることはナンセンスだと認識すべきだ。
  例えば、我々は宗教家が祈りを行うとき、そこに合理性など求めない。同様に欧米の紳士がレディーファーストな振る舞いを行うことに、合理的な理由など必要ない。ただ単にそういう文化であり、そのような行動様式であるだけだ。もちろん、その根底には他者を思いやる"善"の気持ちがある事は否定できない。だが、他者を思いやる行動がレディーファーストの様式をとる必要性はない。

TPOを弁えて、レディーファーストを

  レディーファーストを、特定文化圏固有の行動様式と捉えるのであれば、それが合理的ではないからという理由で、否定すべきではない。また、納得していない者に押し付けるべき行動指針でもない。   他の文化や行動様式と同じく、時や場所を弁えてレディーファーストに振る舞うか否かを使い分けることが妥当だ。神社で参拝の作法を行うように、ダンスパーティーではレディーファーストを行えば良いのだ。   レディーファーストな雰囲気を味わう場面で、その様式美を楽しめないものは、心にゆとりのない頑固者であり、(レディーファーストが浸透していない)今の日本社会でレディーファーストを強要するのは、レディーファースト"かぶれ"の独善者である。

蛇足

  男女を区別する話になると過敏になる人が多いように思う。個人的には、ほどほどに区別すれば良いと考えている。生物学的/物理的な性差が存在することは事実であり、それを否定することは不自然だ。ただし、その差をどのように捉えて運用するかは社会倫理に従えば良いと思う。現代は原始時代ではないのだから、生殖活動を除く多くの社会活動において、性差なんてものは物理的には大した問題にはならない。皆が気持ちよく過ごせる程度の区別を行えば良いのだ。異性と同じお風呂に入るのが嫌であれば分ければ良いし、スポーツで男性が有利すぎて面白くなければ男女に分ければ良いのだ。